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アルゼンチンの芸術家、レアンドロ・エルリッヒが再創造された空間で境界線を超える

アルゼンチン生まれの芸術家、レアンドロ・エルリッヒの作品は、ここ20年以上の間、国際的に認められ、世界中の美術館に展示されてきました。大きな成功を収めているエルリッヒの人気は、アジアでもとどまるところを知りません。2019年には、北京の中央美術学院の全展示スペースを使用した初の外国人芸術家となり、その1年後には日本・金沢の美術館「KAMU kanazawa」に、作品<<Infinite Space>>が恒久展示されました。エルリッヒはその革命的な作品を通して、人々の日常体験に疑問を投げかけ、世界の認知に挑戦し、現実世界の境界線を押し広げます。創作過程や哲学の影響、作品と建築のつながりについて、エルリッヒに話を聞きました。



ビジュアルアーティストになろうと思ったきっかけは何ですか?

昔から芸術表現に魅力を感じていました。建築家の家系で育ち、アートは家族の中で高く評価されていたので、小さい頃から芸術家になりたいという野心はありました。アートの世界で働くことはロマンティックですが、将来への大きな不安もあります。他の職業と比べて芸術家には、芸術家としての質を証明する学位がありません。ファインアートの学位はあり、美術教師になって自己実現を達成することはできますが。

それで私は、哲学にも興味を持ちました。哲学は、思考や批判的感覚とひもづく芸術を目覚めさせます。一方、芸術家の創造は個人の探究であり、それは絵の描き方や構造といった技術面もありますが、アイデアの発展や社会での想像力の追求といった重要なことでもあります。


作品に影響を与えた哲学は何ですか?

私にとって哲学とは、物事の秩序に対し疑問を持ち、批判的感覚を養うものです。現代では職業は専門化されていますが、ギリシャ哲学やラテン文学では、芸術家と哲学者は分けられないものとされており、私も後者を信じています。当時のテーマは幅広く、表現の才能が必要でした。例えば、プラトンの『洞窟の比喩』。この物語は文章で書かれていますがとても視覚的で、まるで現代アートのようです。と同時に、詩やアートからリアルの秩序を問うこの作品に、私はインスピレーションを受けました。


現代において科学は、答えを提供してくれます。今は便利な科学技術の時代ですが、一方でアートも、世界に対する気づきをもたらし、未来の自分を想像させてくれます。アートとは、人生に対し考えや疑問を持つきっかけをくれる、小さな砂のかけらなのです。



作品の多くは20世紀のシュルレアリスムに近い傾向がありますが、特に共鳴する芸術家は誰ですか?

芸術家は、過去の芸術家たちに影響を受けていると思われがちですが、私は、芸術家の創造活動には歴史的背景が大きく関係していると考えます。例えばシュルレアリスムの誕生は、フロイトによる無意識の概念が問われた時期と重なります。私はコンセプチュアル・アートの生みの親であるマグリットとマルセル・デュシャンが好きですが、例えば、産業革命なしにはデュシャンの創作活動、特にレディメイドの創出は語れません。


今日、私はリアルの意味を問い、現実とは何かを定義しようとしています。時とともに様々な答えがあり、神話や宗教、そして芸術もまた、現実の秩序を問うてきました。そして技術化が進み、この問いが新たに戻ってきているようです。私たちは技術や科学によって驚くべきことを成し遂げ「知覚」によって現実の本質を建て直し、現実をコード化できるようになりました。私にとって視覚認知は、この問いかけを象徴するものです。



人類には自然と解離したものを作る能力があります。

最近は、アートを見る人々の空間に作品を置くことがありますね。パリの「メゾン・フォンド(溶けた家)」や老舗百貨店ボン・マルシェでの作品は、アートを鑑賞する人々の日常生活に溶け込んでいるようです。

アートのための空間から離れてみたいと思いました。美術館というのは、足を踏み入れる時からすでに、これからそこで何を体験するかがわかっています。同時に、芸術家の想像力とそれを見る人を守る空間でもあります。例えば、美術館では裸を扱った展示ができますが、それを街中で行ったら警察に捕まってしまう。なので、アイデアをそのままに、観客と意思疎通ができるこの空間に感謝してはいますが、私は外に出て、アートを公共の場に戻すことに挑みました。アートは、部屋に閉じ込められているにはもったいない、日常生活に溶け込める豊かな物語なのです。建築が日常生活の一部であるように、時に思いがけず、時に生活の一部となれる場所で、思考やアートを表現したら面白いのではないかと。そのひとつが、日本で作った新しいホテルです。アートは日常を語るものだから、日常の空間でやってみよう!と。これが、境界線を取りはらう、ということです。


「メゾン・フォンド(溶けた家)」のような環境や自然をテーマにした作品にも建築が扱われていますが、人間と自然の相互作用についてどのように考えますか?

人類には自然と解離したものを作る能力があります。建築は人類の発明であり、自然は宇宙から与えられた空間です。しかし現代、私たちは現実において、もはやこの2つを切り離していません。隕石にも車にも同じように価値があります。私にとって建築は、現実の秩序を問うのに理想的な空間なのです。毎朝仕事に行く時、自分自身に問いかけることはしませんよね。建築は日常生活の一部でありながら、そこで私たちは考えることをやめてしまった。だからこそ私は、日常生活の一空間を利用して、問いかけているのです。


作品の多くは世界中を旅し、アジアや日本、特に金沢ではたくさんの作品が常設展示されています。海外での熱狂的支持をどう感じますか?

解釈にもよりますが、視覚認知について言うのであれば、これは文化的な話ではなく、物事の見方がポイントだと思います。日本やアジアにおける美の哲学というものは、私の作品文化とぴったり一致するのもではありません。しかし、移り変わる空間やありえない経験に浸かるというアイデアは、どの国でも理解できます。ここでぜひ感じてほしいのです、哲学を学ばなくたって、あなたは私の作品を身近に感じることができる、と。



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